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人を思う、包丁

鍛治職人

大塚義文さん

当時のノートには「2018.8.1 大塚義文さん」と書いてある。
まだ新聞記者だった頃、取材をお願いして断られた経験がある。取材は受けないことで有名な人だ。
それでも「ゆくゆくやりたいことがあるんです」と正直に伝えると、「君が決断した時なら協力してあげるよ」と言ってくれた。
それから1年が経過。そもそも、あの時の約束を覚えてくれているだろうか…。
そんな不安といささかの緊張感を持ちながら、腕利きの鍛冶職人を再び訪ねた。

「あぁ、あの時の。覚えてるよぉ。智頭の人を紹介するねぇ。
でもさ、俺なんか入れてもしょーもないよ、取り上げるだけの価値もないと思うよ」。
そう笑ってお茶を濁されるのかと思って、半分諦めていたところに「で、どうしたらいいの?」と笑顔の大塚さん。
思わずその場で飛び上りたくなった。いや、気持ちの中では飛んでいた。

20代は大阪で働いたが、30歳で故郷に戻った。そこからすぐに祖父から続く実家の鍛冶屋を継いだわけではない。
「こんなはずじゃなかったんだよ。最初は問屋営業をしようと思ったんだけど、
そのうちにある問屋に『自分ところの品物を売るにも、親父の仕事を見てみたらどうだ?』と言われてね」と、修行を始めた。
この時から刃物と対峙していく宿命だったのかもしれない。
3ヶ月後に父が病に倒れた。師を失い、鍛冶屋を続けることも悩んだ。
「でも、ここで辞めたらなんか悔しいやん?」。その背中を、意地が支えた。

以来、必死に技を磨いた。
問屋から紹介を受け、長野、大阪、高知…と全国各地の職人を訪ねては教えを請うた。
「だから俺の包丁はいろんなところの技が混ざっているんよ。頭も固くないし、固定概念もなかったから、これはこう!と決めつけなかったしね」。
大塚刃物の包丁は伝統の技と、自由な発想力の賜物だ。

「海外の品物も取り寄せたり、いろんなものを見たり、聞いたりしてね。それを頭に叩き込んできた。
脳のファイルをつけて、何かを作る時にはそれを引っ張りだすんだよ。知恵は、知識がなかったらつかないからね」。
25年前、女性がパンやケーキを囲んでお茶をする時に使うナイフのような包丁を頼まれてできたのが代表作の一つ「みたき包丁」。
また、キャベツ切りの包丁を依頼されて作ったものは、その後に関東圏の専用包丁の仕様となった。
使い手を思うのが大塚流。5種類だった包丁は、今や60数種類に増えた。

「誰が、いつ、何を切るのに使うか。それによって全て違う。誰かをイメージしないと明確な品物はできない。
これはこの人が使うもの、という具合にね。そしたら、その品物が生きるというか、輝くんよなぁ」

思いがけない提案を受けた。「どうせなら藤田さんの包丁を作ってみようか?」。
前々から憧れていた包丁を、作ってもらいながら撮らせてもらえることになった。
とっさに握手を求められた。手の大きさ、力強さ、その人特有の感覚。まさに「その人の手にあった包丁を頭に描くからだという。
「うん、わかった」。さっきまでの柔和な顔が、職人のそれへと変わっていく。

近所で木工をしている草刈さんから引き取った端材を燃やし、コークスに着火させる。
火作りをし、熱した鋼を打ちこんでいく。素早い動きには一切の無駄がない。
成形が終わると、焼き入れに移る。28〜30度の軟水に30秒入れて鋼の強度を高め、その後は油の中に2時間つけて粘りをつける。
「硬さと粘りがないと切れない。温度が何度下がるかなんて、ほとんど勘だよ。1.5秒ぼーっとしてたら商品にならない」。
30年の勘が極上の一本を仕上げる。


大塚さんの右手の親指は曲がっている。もちろん包丁にしていく鋼を強く打ち付ける動作がそうさせた。
これまで何千、何万本と打ってきた人だ。何が出来を決めているのかを聞いてみると、
「集中力。100点つけれるのは100丁打って3丁。何が違うって言われても、ただの気持ち。
気持ちが乗ったときはいいものができるけど、乗らないときは何してもだめ」と笑い飛ばした。

今や1年以上先まで注文がある人気ぶりで、作業は深夜12時になることもある。だが、奢ることはない。
「なんで俺は下手くそなんだろうと毎日思い続けてる。でも、続けているのは、結局好きだからかな、ものを作ることが」とつぶやいた。
そうかと思えば「ま、毎日うまい酒が飲めたらそれ以上のことはないし、
孫に『じいじ、かっこいいね』と言ってもらえたらええんよ」。照れ隠しのように続けた。

真っ直ぐに、地に足をつけて智頭でものづくりを続けている。
その気取らない人が作る、人を思う刃物は、実によく切れる。

text & photo:藤田 和俊