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好奇心にまっすぐに。

栃づくり名人

寺谷恒雄さん

「わしらは正月だけじゃなくて、雑煮にして食べることが多くてなぁ。
この辺じゃ白い餅より、この栃餅を使う。2個くらいは食べられるじゃろ?
さぁ、まずは食べてみんことにはわからんからのぉ。おーい、できたかぁ」

白い湯気を上げながら、妻の照美さんが作ってくれた雑煮の登場。その美味しそうな香りに、食欲を掻き立てられる。
「いただきます」を言うと同時に頬張る僕をみて、「どうじゃ、うまいじゃろ」。その目尻が、優しく下がった。

智頭町の特産品である栃の実。
その名人と名高い寺谷恒雄さんは、以前に柿の葉寿司で取材させてもらった国政勝子さんの義弟。
世間は狭いというが、人口7千人の智頭はびっくりするほど狭い。
初めて会ったのは1年前、芦津にある山菜料理屋「みたき園」で撮影をしていた時。
地元の食文化や習わしを伝えられる人が少なくなった今、
恒雄さんはみたき園のスタッフに栃の実づくりのコツを教えているのだと聞いた。

「前から若い者にこういう暮らしの知恵を習えというとったんじゃが、
みたき園の人らがわしのやり方を習いたいと言ってくれてなぁ。
一人でもそういう思いでやってくれたら嬉しいなぁ」と話してくれた。

春には、みたき園のタケノコ掘りにも同行したことがあった。
〝スポット〟を知る恒雄さんは袋を担いで皆を先導していた。
その頼もしい背中やその足取りをみて、81歳という年齢を疑ったのを覚えている。
「もう歳じゃけえ、ダメじゃ」と笑うが、そんなことはない。
転がったらどこまでも転がってしまいそうな急斜面で、誰よりも掘っていた。

「仕事を定年退職した頃から血圧が高くて、それ以来、雨と雪の日以外はずっとウォーキングをしとる。
20年になるかなぁ。夏は朝4時半ごろから歩いとる。今日は1万2千歩くらい歩いとるなぁ」と、
腰につけた万歩計を見せてくれた。

そりゃ、元気なはずである。

栃の実は、智頭の人にとって身近であり、大切な食材なのだ。

「芦津の人はまだ夜が明けない時間から山まで30〜40分歩いて、それぞれおもいおもいに狙った木の下でじっと待っとってな。
他の人によく取れる場所がわからんようにじっと隠れとる。それで、明るくなったら拾ったもんだ」

栃の木は、町内でも山深いところにしかないという。
「芦津の山には、このくらいの栃の木が全部で千本くらいでもある」と、両手を体よりも大きく広げてみせる常雄さん。
食料が少なかった時代には、栃の実を米に混ぜることで町民の台所を支えてきた。
味は特有の風味があり、餅やようかんにすると旨みが一層引き立っておいしいが、
食べられるようにするまでにとにかく手間がかかり、年々担い手が減っている。

9月から木ごとに実が落ちるタイミングを把握し、3週間ほどで400kgも収穫。
その実を水につけ、天日干しにしたものをまた1週間ほど水に浸した後に、木で押しつぶすように実を取り出す。
この時に、飛沫が目に入るととても激痛だ。次は、広葉樹の灰を混ぜ合わせてアクを抜くのだが、灰の加減が難しく、
うまく合わせないと味も落ちるだけでなく、実の形も溶けてしまうらしい。
そんな一連の工程を長年の技で仕上げ、「恒雄さんの栃の実はやっぱり違う」と皆が声を揃えて言う。

20年ほど前、智頭町の各地域が村おこしをする「ゼロイチ運動」が盛んになり、
仲間と一緒に芦津を盛り上げようと奮起。還暦をすぎてから栃の実づくりを学んだ。

「山の資源を大事にせないけんと思ったのが原点じゃ。わしは、昔から山を歩くのが好きでな。
小学生の頃なんか山以外になんもなかったから、よく山栗を拾ったりしてな。
昔は栃の実づくりもやる人が多くて、一から習ったんじゃ。ボーッとしとっても教えてくれん。
いろんな人のところに教えてくれと頼んで回ったもんじゃ」。

なんでもやってみては、それを楽しむ人だ。
「わしは昔から好きなことはなんでもちょっと触りとうなるんよ。
畑で自ら蕎麦の実を作って、それを隣県の島根県まで売りに行ったこともあった。
栃もそうだし、川釣りや海釣り…。あぁ、キムチも作っとる」
好奇心がこの人を突き動かしている。

若い頃に一度だけ都会に出たという恒雄さん。
だが、どうも水が合わず、生まれ育った町に戻った。
そこで妻と出会い、智頭の山で遊び、暮らしてきた。

「これまで生きてきて大事にしていることか?特別なことは、ないなぁ。
自分は婿養子で芦津に来たから、この地域に溶け込ませてもらったという気持ちが強い。
恒さん、恒さんとみんなが愛称で呼んでくれるのが嬉しいし、それが一番気楽でええんじゃないかなぁ」

優しい顔で笑った。

text & photo:藤田 和俊